1974年と1975年、NHKが「市民が描いた原爆の絵」を募集した際に、2000以上。2002年に広島市、NHK,中国新聞社が共同で募集した際に、1500以上の応募がありました。ここでは、その一部を紹介します。絵の中に記載された文章は、当時の状況、解説、思いなどが綴られていて、貴重な証言となっています。各絵をクリックすると絵が拡大されます。 これら絵、絵中の解説の転載、配布等はできません。転載等希望の場合は、広島平和記念資料館、著作権者の許可を必要とします。(HIROSHIMA SPEAKS OUThttp://dataforpeace.cocolog-nifty.com/portal/)
爆心地から1,700m、比治山橋
1945(昭和20)年8月6日
原田 勇(原爆投下当時14歳、絵を描いた時71歳)
絵中解説:
比治山方面行きの市内電車が止まって延焼中。すでに車体は半ば破壊され、窓から真っ黒に焼け焦げた人間がぶら下がり、路上にたたきつけられている。電車に乗っていた人々全員は一瞬にして死亡。
目の前に男が仁王様のように立って、少しずつ少しずつ足をひきずりながらこちらに向かってくる。身にまとっている物は下着のフンドシと片足のちぎれたゲートルだけで、あとは全部裸で全身が衣類ともども焼けただれ、顔も真っ赤にふくれ上がって、片目がとび出ていた。
爆心地から1,400m、縮景園裏の河岸
1945(昭和20)年8月6日午前9時ごろ
菅 葉子(原爆投下当時14歳、絵を描いた時43歳)
絵中解説:
猛火を逃れてやっと川岸までたどり着いた人たちは、へなへなと崩れ落ちてしまった。
目の前でもがき苦しみ息絶える人。生き残った人は対岸に向かって川の中へ入っていく。川上のほうからはおぼれながら流される人々数知れず。それでも迫る火から逃れようと入水する。
爆心地から1,300m、天満町(西区天満町)
1945(昭和20)年8月6日
小野木 明(原爆投下当時15歳、絵を描いた時の年齢45歳)
絵中解説:
倒壊した家屋の下敷きになった母親のそばで、女の子が泣きじゃくりながら「お母ちゃんを助けて」と近所の人々に助けを求めていた。男3人で柱を持ち上げようとすればビクともしない。火炎が刻々と迫り、助けようもないので、「許して下さい」と合掌してその場を離れた。
爆心地から1,400m 住吉橋西詰(中区舟入本町)
1945(昭和20)年8月6日午前10時ごろ
三好 茂(原爆投下当時40歳、絵を描いた時の年齢70歳)
絵中解説:
生きておられれば35,6才の婦人救出。 「ひろ子さんしっかりして しっかりして 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」
天井の板の落下で首だけ出したひろ子さん。5,6才の女の子。
爆心地から1,800m 段原国民学校(南区的場二丁目)
1945(昭和20)年8月6日
松村 智恵子(原爆投下当時33歳、絵を描いた時の年齢62歳)
絵中解説:
学徒動員の子ども20名くらい。私が倒れた校舎の下からはい出した時はあたりはまっ暗で、理科室の方向には赤黒い火の手があがっていた。折れ重ってたおれた校舎のすき間から頭と右手を出して声を限りに助けを呼ぶ生徒がいた。そのまわりにも何人かの生徒のうめく声がきこえていた。私は助けようとしたが、モルタルの倒壊は私一人の力ではびくともしなかった。「先生助けてー」その声が今も耳元にきこえてたまらない気持ちだ。
爆心地から10km、五日市町楽々園海老橋付近(佐伯区楽々園)
1945(昭和20)年8月6日正午ごろ
前 カズノ(原爆投下当時26歳、絵を描いた時の年齢56歳)
絵中解説:
ぞくぞく続く避難者のなかに若き母親のみじめな姿。避難の途中で子どもを死なせ、頭からすっぽり黒い布をかぶせ、どこで拾ったのか荒縄で死せし子を背負いて炎天下重い足を引きずり去った。何処を目指して行ったのでしょうか。
爆心地から1,200m 天満町付近(西区天満町)
1945(昭和20)年8月7日
秋山 和男(原爆投下当時34歳、絵を描いた時の年齢64歳)
絵中解説:
火焔に包まれ逃げ場を失った母親は、二児を抱き込み地に伏せた姿で死んでいました。子どもの指先が母の肌に深く喰い込んでいた。
1945(昭和20)年8月6日午後2時ごろ
松室 一雄(原爆投下当時32歳、絵を描いた時の年齢61歳)
絵中解説:
私が横を通った時、力のない声で「水をちょうだい」と言ったので「まもなく兵隊さんが来てくれるから頑張るのよ」と力づけて通り抜ける。20分後見たら死んでいた。付近に顔半分ホータイをした兵隊が荷札を沢山腰にぶらさげて立っていた。
荷札の表裏
場所 比治山線鶴見橋東
推定時間 八月六日午後二時 五才位
爆心地から800m 竹屋町付近(中区竹屋町)
1945(昭和20)年8月7日午前8時頃
松室 一雄(原爆投下当時32歳、絵を描いた時の年齢61歳)
絵中解説
死んだ子どもをどこで焼こうかしら…
背中にぶらさげた子どもの顔の火傷跡には白い「ウジ虫」が動いていた。拾った鉄カブトは、子どもの骨を入れるつもりだろう。
よほど遠くまで行かねば焼く材料となる物は全くない。
爆心地から1,300m、天満町
1945(昭和20)年8月7日
木原 敏子(原爆投下当時17歳、絵を描いた時47歳)
絵中解説:
焼けて赤くなった電車が天満町に止まり、何かと思えば…。
人間の黒焦げが電車の中から点々と外に倒れ、もう炭と言っていい。人間の炭…。
信じられない事だった。兵隊さんがムシロを掛けていた。
まさか全市が一瞬にして炭になり、灰の町と化すとは、あまりのショックに頭が変になりそうだった。
1945(昭和20)年8月7日
牧野 俊介(原爆投下当時29歳、絵を描いた時86歳)
絵中解説:
吹き飛ばされた市電の中、腰掛けたままの死体が多かったが、中にはつり革にぶらさがったままの人もいた。
爆心地から1,300m、天満町電車通り
小野木 明(原爆投下当時15歳、絵を描いた時45歳)
絵中解説:
人々は水を求めて防火用水にむらがった。水を飲むと、そのままガックリと息絶えた。槽内に浮かんでいた年若い妊婦の死体。赤絵具を塗るに胸が痛む。
爆心地から600m 新大橋付近 (中区 西平和大橋)
1945(昭和20)年8月7日 午前9時頃
炭本 末子(原爆投下当時37歳、絵を描いた時の年齢67歳)
絵中解説:
このあたりは動員学徒の子ばかりで、13、4才の背丈も同じ様な子で土手も川の中もいっぱいに死んだ子が、さながら大根をながした如く浮きつ沈みつ川下に流れて行く。川におりる石段には子どもがなだれ落ちる様に一段一段に重なり合って死んでいる。どの子も皆あどけない顔をして胸がつまる思いがする。
我が子の名を呼びさけんでいる母親。
爆心地から400m 材木町(中区中島町)
1945(昭和20)年8月8日
桑本 トキコ(原爆投下当時41歳、絵を描いた時の年齢70歳)
絵中解説:
八月八日材木町
誓願寺で我が子の防空頭巾発見。市女の生徒、皆目の玉が飛び出して頬骨の上にかかっていた。教え子を水槽に入れ、その上に覆となりて死んでおられる市女の女先生。思わず合掌。
八月八日三篠町付近
加藤の奥さんと出会う。県女の一年生で仲良しの正子ちゃんが頭にタル木が突きささり即死されたのであろう。奥さんが「このタル木めが」と云って抜こうとされたら、血がドブドブと流れ出るので元通りにして、お母さんは泣く泣く乳母車を押して帰られた。
爆心地から1,210m、下柳町(現在の中区銀山町)
1945(昭和20)年8月9日午前
古川 正一(原爆投下当時32歳、絵を描いた時62歳)
絵中解説:
たくさんの被爆した人たちが寄り添い倒れ、中にはそのまま死亡してる人たちもいた。生きている人は一様に水を水をと言う。右の女の人に水筒の水を上から口に流してあげたが飲みこまなかった。目は開けていたが死んでいた。傷口にうじ虫が動いていた。ほとんどの人が手当ても無く、皆、虫の息だった。その後この人たちは生きられたのだろうか、死なれたのだろうか。合掌
爆心地から1,100m、舟入町
1945(昭和20)年8月10日 午前10時ごろ
古川 正一(原爆投下当時32歳、絵を描いた時62歳)
絵中解説:
舟入町電車線路のムシロらしき敷物の上に2列に並べられた被爆者の人たちのまくら元に、キュウリ一本ずつと、空き缶や焼けた瀬戸物茶わんなどに、水が少しずつ入れてありました。キュウリをしっかりにぎったままで死んでいる人…。水を口までもっていけない人…。被爆した人たちがうめきもしない。声が出ないのでしょう。
約20もあろうか、この人たちは傷ついた体をだれにみとられたのであろうか…。その後は…。30年たった今も昨日のように浮かびます。
爆心地から1,300m、住吉神社付近
1945(昭和20)年8月9日正午ごろ
古川 正一(原爆投下当時32歳、絵を描いた時62歳)
絵中解説:
住吉神社土手の川面にたくさんの被爆死体が漂い、ずるむけになった男女の性別さえ分かりかねる死体が大きく膨れ上がり風の間に悪臭が。この死体、海に流されて氏名も分からぬままに無縁仏になられるのかと思い胸がせまる思い。合掌
爆心地からの距離 不明
1945(昭和20)年8月7日夕方
石風呂 環(原爆投下当時35歳、絵を描いた時の年齢65歳)
絵中解説:
長女尚子(3才)を自分で焼く。泣けて泣けて涙が止らない。
「私も行く。先に行っていてくれ」と手を合す。未だ次男克巳(9才)も不明だ。あの子はどこか逃げていてくれと祈る。だんだん焼けて体の中の油が流れ出る、大変な量だ。元気な子を焼くのだ。可哀想だ、見ていられない。気が狂いそうだ。これが現世とは思えない。地獄だ…
「あれから30年死んだ二人の子にすまんすまんと生きてきました。親の責任だ、赦してくれ、子ども達約束を守らず。(勇気がなかった)」